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オスリャービャ (フリゲート) : ミニ英和和英辞書
オスリャービャ (フリゲート)[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オスリャービャ (フリゲート) : ウィキペディア日本語版
オスリャービャ (フリゲート)[ちょうおん]

オスリャービャ(ロシア語:アスリャービャ)は、ロシア帝国の建造したスクリューフリゲート()である。艦名はクリコヴォの戦いにおけるロシアの英雄ロジオン・オスリャービャ」に因んだもので、同時期に建造されたペレスヴェートと対になるものである。〔15世紀の物語『ママイの大合戦についての伝説(')』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い。〕''アスリャービャ)は、ロシア帝国の建造したスクリューフリゲート()である。艦名はクリコヴォの戦いにおけるロシアの英雄ロジオン・オスリャービャ」に因んだもので、同時期に建造されたペレスヴェートと対になるものである。〔15世紀の物語『ママイの大合戦についての伝説(')』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い。〕)』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い。〕
== 概要 ==
クリミア戦争の経験から、1850年代後半、ロシア帝国海軍蒸気化・スクリュー化した軍艦の整備を急ぐようになった。艦隊の中堅となる新しいスクリューフリゲートに関しては、1858年にスクリューフリゲート・ゲネラール=アドミラールアメリカ合衆国進水し、一方、フランスではスクリューフリゲート・スヴェトラーナが進水した。
これに続いて発注されたのが、45門艦オスリャービャと51門艦ペレスヴェート、57門艦オレークであった。この3 隻はロシア国内で建造され、最初に起工したのがオスリャービャであった。
オスリャービャは1857年3月3日〔公式には1857年12月22日とされている。〕、サンクトペテルブルクオフチンスコエ海軍工廠で起工した。1860年8月8日に進水し、1861年に竣工してバルト艦隊へ編入された。
搭載する蒸気機関は460 公称馬力(nhp)〔指示馬力(ihp)では890 馬力。〕で、サンクトペテルブルクのカルル・イ・マクフェルソン工場で1860年に製作されたものであった。1947年生まれのロシアの軍事歴史家アレクサンドル・シロコラートの研究によれば、1862年から1868年の間、オスリャービャの上層甲板には60 ポンドNo.1が1 門、No.2が6 門、閉鎖砲座にはNo.2が28 門搭載されていたとされる。
1863年7月から1864年7月にかけては、ステパン・レソーフスキイ海軍大将指揮下の「示威遠征艦隊」に参加して南北戦争中のニューヨークに赴き、大陸へのイギリスとフランスによる海上輸送の妨害任務に就いた。この艦隊はいずれも蒸気船で編成され、スクリューフリゲート・アレクサンドル・ネフスキー旗艦に、オスリャービャ、ペレスヴェート、コルベットヴァリャークヴィーチャシクリッパーアルマースが参加していた。
1874年10月19日には海軍を退役し、武装解除の上、売却・解体された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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